蒲原にあるKITTOで毎週金曜日に、珈琲や紅茶の喫茶スタイルでの出店をはじめている。(概要はこちら)
今日は、ドリンクのお供にスコーンを焼いていった。本来は、どら焼きを焼いて持っていきたいのだけれど、あんこを炊いたり生地をつくる余裕がなく、今日はスコーンとなった。これまで、毎月1回の朝市での出店であったので、出店のための、豆の焙煎、器具の準備、おまけのお菓子づくりなど、いろいろと準備する内容は分かっていても、毎週のこととなると、まだ慣れていなく1週間の流れがまだまだスムーズにはいかない。1週間の中で、準備を含め出店までの流れが整ってくれば、どらやきづくりもより進められるような気もしている。

今日は、いつものお馴染みメンバーや、近所に住んでいる方、ドイツから旅に来た方、久しぶりに会えた方など、開店中は人が出たり入ったりしてくれて、誰もいないという時間はなかった。自分が主催となって、定期的に固定した時間に、誰でも来れる場を開くことは、僕のこれまでの経験の中で初めてに近い体験のように思う。塾やフリースクールでも、決められた時間内に、生徒という限られたメンバーが来る環境であるし、イベントを主催しても、事前に参加表明をしてもらって企画する機会が多かった。
だけれど、定期的に固定した時間に、誰でも来れる場を開くと、いつ、だれが来るのかわからない。だからこそ、自分では予想できない場が生まれる。
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今日もみなさんと色々なお話ができた。その中で感じたことは、僕自身も、みんなも行きがけの道ということだ。でもみんな行きがけの道だからこそ、こうやって初めての方とも、久しぶりに再会した人とも、いろいろと話ができたりするのかな。なんてことを思った。
行きがけの道という言葉は、吉本さんの『15歳の寺子屋 ひとり』に出てきた言葉であったように記憶していた。久しぶりに手にとって読み返してみた。今日はその引用を書いて、2回目の振り返り記事としたいと思う。
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生きていくことは、たぶん誰にとっても行きがけの道なんですよ。立派な人にはまた特殊な見え方があるのかもしれないけど、僕ら普通の人間は、悟りを開いて帰がけになることはまずないんだってことが自分でわかっていれば、まずそれでいいんじゃないか。人は誰しも行きがけの道を行く。そうして迷いながら、悩みながら、ただただ、歩きに歩いてくうちに、ああ、これこそが自分の宿命、歩くべき道だったんだと思うことがあるんじゃないか。「命なりけり」と気づく時がくるんじゃないか。
やりたいこととやるべきこと、どっちをやればいいのかなんてわからないんですよ、きっと。いつまで経っても。その時その時で悩んで、考えて、考え抜いて選択するほかはない。どっちがいいかはわからないまんま、また、その先を行く。
だけど、そうすると、いつか、「ああ。これが自分の宿命だったんだ」「これが自分の歩くべき道だったんだ」と思うこともあるかもしれない。「命なりけり」と思える日がくるかもしれない。そういういつかを頼みにして、ただただ歩き続ける。そういうものなんじゃないでしょうか。
「行きがけの道だから迷う。帰りがけなら迷わないよ」というのも、いかにも親鸞らしい言い方です。僕も、みなさんも、まだ行きがけなんだから迷って当たり前なんですよ。
『15歳の寺子屋 ひとり』(P50「行きがけの道だから迷って当たり前」より一部引用)