週の半分は、子どものこども園への送り迎えをしている。自宅から車で10分ほどの距離にある。子どもは車の中ではチャイルドシートに座っている。運転席の真後ろの席にチャイルドシートがついているので、バックミラーをみながら子どもの様子を確認する。
こども園からの帰りの車内では、僕からは何か話しかけることはやめてみる。「今日はどうだった?」とか、「帰ったらおやつあるよ」とか、こちらが話したいことを話しかけることもできる。けれど、車に乗ったら音楽もかけず、ただ運転する。そしてバックミラーで子どもの様子をまず観察してみる。
毎日毎日、子どもの様子が異なっておもしろい。こども園であったことを自分から話し出したり、戦隊ものの真似をしたり、気が大きくなって調子にのってるときもある。逆にただぼーっと車の外を眺めている日もある。あくびが出るときもある。ぶつぶつ何か歌ったり、つぶやいているときもある。見せる姿は日々異なる。チャイルドシートで身動きが固定されている中で、こちらからアクションを起こさず、子どもがどのような姿を見せてくるのかを確認することで、子どもの今の状態を掴めるように感じる。
子どもは僕らが思っている以上に対応力がある。その時その時に起こる状況に応じて、適応してくる。(もちろん、それができない場合も多くあるのだけれど)だからこそ、本当の姿が見えにくくなることもある。大人だってそうだ。周りの人と調和しながら、楽しい時間を過ごしたと自分自身で思っていても、独りになったとき、静寂を感じたとき、外部からの働きかけから解放されたとき、ため息がふとでることだってあるかもしれない。そして、本当は疲れているんだと自覚することもある。
そんなように、外部からの働きはたらくかけがないときに、子どもの内側がみえるようにも思う。
何もしないで、ただ相手から自発的に表れてくる姿を見つめること。余計なことをせず、外部の働きかけを遮断すること。そうすることで見える姿や聴くことのできる声があるように思う。
他者の声は、働きかけなくても聴けるのだろう。こちらが相手へ意識やまなざしをむけるだけで、聴くことは成立するのだろう。
