
オクジー:
あの、あまり他人を排除しすぎると、間違いに気づきにくくなるのでは
それは研究にとって良くないんじゃ?
ピャスト伯は、誤差や手間のある現状の宇宙像に疑問を持って
あたらしい宇宙をみつけようとしたんですよね。
そして実際、精度の高いものを作った。それもまだ天動説の範囲だったわけですけど。
俺たちとピャスト伯には、どれほどの差があるのでしょうか。
紙の上、計算で誤差を競うことはできる。
でも確かな証拠がない以上、最後の最後、本当に地動説が真理だとは誰も断言できない。
だとしたら、ピャスト伯と俺たちに大した差はない。
でも彼は自ら、自分が間違っている可能性を信じ、それを受け入れた。
・・・
バデーニ:
地動説が間違いだとでも言いたいのか?
オクジー:
いいいいや、そうじゃなくて、
俺が言いたいのは、、その、、
自らが間違っている可能性を肯定する姿勢こそが、学術や研究には大切なんじゃないかということです。
第三者による反論が許されないなら、それは信仰だ。
信仰の尊さは理論や理屈を超えたところにあると思いますが、それは研究とはすみ分けられるべきでは。
そして、反論してもらうには、他人が重要なので、あまり排除するのは。。。
・・・
バデーニ:
君は、君はなぜそんなことを思った?
オクジー:
昔、、、、それが希望だと教わったからです。
前の職場の先輩や、ネックレスの異端者、あの石箱にかかわった二人とも、
自分以外に託すって姿勢に希望を見出していた。
そしてあろうことか、その姿勢を天国に行くことよりも重視した。
俺は、それがずっと不思議だった。
託すとか、任せるとか、一見聞こえはいいですけど、
実際、他人が自分の思い通りに受け継ぐかなんてわからない。
それどころか、思いもよらない反論をされる可能性もあるわけで、
だから託すなんて不安で、とても希望とは思えない。
でも実は、むしろ反論や訂正をされることが託すことの本質というか、
自分の思い通りにいかない、誤解とか、事故とか、予想外の存在とか、
それこそ、信徒にとっての異端者が、
天動説にとっての地動説が、
そういう他者が引き起こすねじれが、現状を前に動かす希望なのかもしれないって思ったんです。
・・・・
バデーニ:
その姿勢を研究に採用してしまうと、我々は目指すべき絶対真理を放棄することになる
そして学者は永久に未完成の海を漂い続ける
その悲劇を我々に受け入れろとでも?
オクジー:
そうです。
それでも、間違いを永遠の正解と信じ込むよりましでは。
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